2011年度
2011年酒井(広)研究室年次報告
本研究室では、 (1)高強度レーザー電場を用いた分子操作、 (2)高次の非線形光学過程(多光子イオン化や高次高調波発生など)に代表される超短パルス高強度レーザー光と原子分子等との相互作用に関する研究、 (3)アト秒領域の現象の観測とその解明、 (4)整形された超短パルスレーザー光による原子分子中の量子過程制御 を中心に活発な研究活動を展開している。
始めに、分子の配列と配向の意味を定義する。 分子の頭と尻尾を区別せずに分子軸や分子面を揃えることを配列(alignment)と呼び、 頭と尻尾を区別して揃えることを配向(orientation)と呼ぶ。 英語では混乱はないが、日本語では歴史的経緯からしばしば逆の訳語が使用されて来たので注意する必要がある。 また、実験室座標系で分子の向きを規定する三つのオイラー角のうち、 一つを制御することを1次元的制御と呼び、三つとも制御することを3次元的制御と呼ぶ。 以下に、研究内容の経緯とともに、今年度の研究成果の概要を述べる。
1.レーザー光を用いた分子配向制御技術の進展
本研究室では、 レーザー光を用いた気体分子の配向制御技術の開発と 配列あるいは配向した分子試料を用いた応用実験を進めている。 分子の向きが揃った試料を用いることが出来れば、 従来、空間平均を取って議論しなければならなかった多くの実験を格段に明瞭な形で行うことが出来る。 そればかりでなく、化学反応における配置効果を直接的に調べることができるのを始めとし、 物理現象における分子軸や分子面とレーザー光の偏光方向との相関や 分子軌道の対称性や非対称性の効果を直接調べることができるなど、全く新しい実験手法を提供できる。 実際、配列した分子試料の有効性は、 I2分子中の多光子イオン化過程を、時間依存偏光パルスを用いて最適制御することに成功したり (T. Suzuki et al., Phys. Rev. Lett. 92, 133005 (2004))、 配列した分子中からの高次高調波発生実験において、電子のド・ブロイ波の打ち消しあいの干渉効果を観測することに成功したり (T. Kanai et al., Nature (London) 435, 470 (2005))するなどの、 本研究室の最近の成果でも実証されている。
分子の配向制御については、 静電場とレーザー電場の併用により、既に1次元的および3次元的な分子の配向が可能であることの原理実証実験に成功した。 これらの実験は、分子の回転周期に比べてレーザー光のパルス幅が十分長い、いわゆる断熱領域で行われたものである。 この場合、分子の配向度は、レーザー強度に追随して高くなり、レーザー強度が最大のときに配向度も最大となる。 一方、光電子の観測や高精度の分光実験では、高強度レーザー電場が存在しない状況で試料分子の配向を実現することが望まれる。 本研究室では、静電場とレーザー電場の併用による手法が断熱領域で有効なことに着目し、 分子の回転周期Trotに比べて立ち上がりのゆっくりしたパルスをピーク強度付近で急峻に遮断することにより、 断熱領域での配向度と同等の配向度を高強度レーザー電場が存在しない状況下で実現する全く新しい手法を提案した (Y. Sugawara et al., Phys. Rev. A 77, 031403(R) (2008))。 最近、ピーク強度付近で急峻に遮断されるパルスをプラズマシャッターと呼ばれる手法を用いて整形する技術を開発し、 レーザー電場の存在しない条件下で分子配向を実現することに初めて成功した (A. Goban et al., Phys. Rev. Lett. 101, 013001 (2008))。
一方、本研究室ではさきに、分子の回転周期よりも十分長いパルス幅をもつ高強度非共鳴2波長レーザー電場を用いて断熱的に分子配向を実現する手法を提案していた(T. Kanai and H. Sakai, J. Chem. Phys. 115, 5492 (2001))。この手法では、使用するレーザーの周波数がパルス幅の逆数よりも十分大きな場合には、分子の永久双極子モーメントとレーザー電場との相互作用はパルス幅にわたって平均するとゼロとなる。したがって、分子の配向に寄与しているのは分子の超分極率の異方性とレーザー電場の3乗の積に比例する相互作用、すなわち、それによって形成されるポテンシャルの非対称性である点に注意する必要がある。
最近、この手法に基づいて、2波長レーザー電場を用いてOCS分子を配向制御することにも初めて成功した(K. Oda et al. Phys. Rev. Lett. 104, 213901 (2010))。 さらに、C6H5I分子を用い、本手法の汎用性の実証も行った。一方、Even-Lavie valveを用いても、OCSやC6H5I分子の配向度は、0.01のオーダーであり、劇的な配向度の増大を図ることは困難であることが明らかになった。 この困難は、回転量子状態がBoltzmann分布しているthermal ensembleでは、いわゆるright wayに向く状態とwrong wayに向く状態が混在していることに起因している。 本研究室では、配向した分子試料を用いた「分子内電子の立体ダイナミクス(electronic stereodynamics in molecules)」に関する研究の推進を目指しており、配向度の高い分子試料の生成が不可欠である。 そこで、初期回転量子状態を選別した試料に対し、静電場とレーザー電場を併用する手法や非共鳴2波長レーザー電場を用いる手法により高い配向度の実現を目指すこととした。 そして、昨年度までに主として対称コマ分子の状態選別に適した六極集束器(hexapole focuser)と主として非対称コマ分子の状態選別に適した分子偏向器(molecular deflector)を組み込んだ実験装置の立ち上げを行った。 今後は、回転量子状態を選別した試料を用い、静電場とレーザー電場を併用する手法や2波長レーザー電場のみを用いる全光学的な手法により、分子配向度の向上を実現した上で、配向した分子試料を用いた「分子内電子の立体ダイナミクス」研究への展開を図る。
今年度は、まず開発した分子偏向器を用いた回転量子状態の選別の様子を、フェムト秒レーザーパルスを用いて試料のC6H5I分子を多価イオン化し、クーロン爆裂によって生成されたフラグメントイオンを2次元イオン画像化法により調べた。 分子偏向器の電極は上下に配置されており、上側の電極に高電圧を印加し、下側の電極を接地して使用する。Even-Lavie valveによって生成される初期回転温度が十分に低い試料中の回転量子状態は殆ど全てhigh-field seekersであるので、分子偏向器に電圧を印加した場合には、予想通り分子の分布が全体として上側にシフトしている様子を確認することができた。 背圧16気圧のNeと背圧60気圧のHeをバッファーガスとして使用した場合を比較するとNeバッファーの場合の方が分子偏向器による偏向の度合いが大きかったが、これはその後の配列度や配向度の測定の結果、背圧60気圧のHeバッファーを使用した場合の方が背圧16気圧のNeバッファーを使用した場合よりも、初期回転温度がより低くなっているためであることが明らかになった。 その後、より偏向した分子を試料とし、非共鳴ナノ秒レーザー電場を用いて配列度<cos2q2D> (q2Dはレーザー光の偏光方向と分子軸(ここではC-I軸)のなす角q の2次元検出器面への射影) を測定したところ、特に背圧60気圧のHeバッファーを使用した場合、レーザー強度1 x 1012 W/cm2のときに<cos2q2D> = 0.95が得られた。 また、静電場とレーザー電場を併用する配向制御法を用いた場合、レーザー電場の偏光方向と静電場の方向のなす角が140o(40o)のとき、観測されるフラグメントイオンのうち、検出器面の上側に観測されるものの割合Nup/Ntotalは、静電場が2.4 kV/cmでレーザー強度が4 x 1012 W/cm2のときに0.67(0.33)に達した。今回得られた<cos2q2D>やNup/Ntotalの値は利用可能なレーザー強度や静電場で世界最高水準の値である。 今後、プラズマシャッター技術を用いてナノ秒レーザーパルスをそのピーク強度付近で遮断することによりレーザー電場のない条件下で高い配向度をもつ分子試料の生成技術の確立を目指す。 静電場と直線偏光したレーザー電場の併用により、レーザー電場の遮断直後や試料分子の回転周期後にレーザー電場の存在しない条件下で1次元的な配向状態を生成できる。 また、静電場と楕円偏光したレーザー電場の併用により、レーザー電場の遮断直後にレーザー電場の存在しない条件下で3次元的な配向状態を生成できる。 3次元的配向制御の対象となる非対称コマ分子の場合、その複雑な回転準位構造に起因して、レーザー電場を遮断した後の回転状態の時間発展の仕方が分子の3つの分極率成分方向でそれぞれ異なるので、1次元的な配向制御のように試料分子の回転周期後に3次元的な配向状態を生成するのは一般には困難である点に注意すべきである。 レーザー電場のない条件下での配向制御に必要なプラズマシャッター技術については、先に原理実証実験に成功した時点 (A. Goban et al., Phys. Rev. Lett. 101, 013001 (2008)) に比べてさらに高性能化を進め、レーザー電場遮断後の残留成分を検出限界以下にすることに成功した。
上述したナノ秒非共鳴2波長レーザー電場を用いる全光学的な配向制御手法にプラズマシャッター技術を適用することにより、静電場も存在しない完全にフィールドフリーな条件下での配向制御が可能である。 直線偏光した2波長レーザー電場の偏光方向を平行にすれば1次元的な配向制御が可能であり、偏光方向を交差させることにより3次元的な配向制御が可能である。 2波長レーザー電場としては、ナノ秒Nd:YAGレーザーの基本波(波長l = 1064 nm)とその第2高調波(l = 532 nm)を使用する予定である。 2波長レーザー電場に対するプラズマシャッター技術の実現可能性は、全光学的分子配向制御の原理実証実験(K. Oda et al. Phys. Rev. Lett. 104, 213901 (2010))と並行して進めていたが、予め2波長を発生させてエチレングリコールジェットシートに入射すると第2高調波の高い光子エネルギーのためエチレングリコールの絶縁破壊が起こりやすく、より高いパルスエネルギーを利用できるようにすることが課題であった。 今年度、基本波のみをプラズマシャッターで急峻に遮断するように整形した後で第2高調波を発生させることにより、基本波、及び第2高調波共により高いパルスエネルギーを利用する技術を開発した。
2.電子・イオン多重同時計測運動量画像分光装置の開発
超短パルス高強度レーザー電場と原子分子との相互作用において、原子分子中からトンネルイオン化した電子波束がレーザー電場中で駆動される際に高い運動エネルギーを獲得し、親イオンと再衝突する際に、非段階的2重イオン化、超閾イオン化、及び高次高調波発生などの興味深い現象が観測される。 これらの現象はレーザー電場の1周期以内に起こり、原子や分子の瞬間的な構造や超高速ダイナミクスの研究対象として好適であることから、近年「再衝突(電子の)物理学(recollision physics)」として大変注目されている。 特に、分子が試料となる場合には、上記の現象の配向依存性を調べることが重要であり、本研究室では「分子内電子の立体ダイナミクス」と呼ぶべき新しい研究分野の開拓を進めている。実験研究では、項目1で述べた気体分子の配向制御技術が基盤技術となる。 本研究室ではこれまでに、クーロン爆裂で生成されたフラグメントイオンを2次元イオン画像化装置を用いて観測したり、高次高調波(高エネルギーの光子)を真空紫外分光器を備えた装置を用いて観測することにより物理現象の探究を進めてきた。 一方、原子分子中で超短パルス高強度レーザー電場に直接応答するのは電子なので、イオンや光に加えて電子の運動エネルギースペクトルや角度分布を観測することが重要である。 さらに、非段階的2重イオン化や多原子分子の超高速構造変形などを探究する際は、イベントを特定するために、電子とイオンのコインシデンス測定ができることが望ましい。
そこで本年度は、「電子・イオン多重同時計測運動量画像分光装置」の開発を行った。 開発した装置では、データの解釈が容易なように速度マップ型を採用した。超短パルス高強度レーザー電場による多光子イオン化で電子やイオンを検出する場合には、試料分子だけでなく残留ガスもイオン化されるため、高い真空度を達成することが重要である。このため、主要部分の材料にSUS316を採用し、電解研磨仕上げとした。 装置は主としてソースチェンバーと検出チェンバーから構成されており、それぞれターボ分子ポンプ1台、及びターボ分子ポンプ2台とゲッターポンプ1台を併用して排気することにより、6.0 x 10-9 Torr、及び1.5 x 10-10 Torrの良好な真空度が達成されている 。分子線はオリフィス径0.15 mmのEven-Lavie valveから供給され、スキマー(Beam Dynamics社製、No. 50.8、直径3 mm)でコリメートされて相互作用領域に導入される。フェムト秒レーザーパルスは、検出チェンバー内に設置された凹面鏡により集光され、検出チェンバーの中心で分子線と直交する方向から照射される 。生成された電子とイオンは引き出し電場によって検出チェンバーの両端に設置された時間・位置敏感型のディレイライン検出器(RoentDek社製、HEX75)の方向に導かれて検出される。荷電粒子の軌道計算によると、静電レンズへの印加電圧を適切に調整することにより、運動エネルギー40 eV程度までの電子の検出が可能である。今後、気体分子の配向制御技術を駆使しつつ、「分子内電子の立体ダイナミクス」研究の推進に活用する予定である。
「電子・イオン多重同時計測運動量画像分光装置」の開発に当たり、同様の装置を用いた研究の第一人者であり、本研究室と共同研究を実施している柳下明教授(高エネルギー加速器研究機構・物質構造科学研究所・放射光科学研究施設・放射光科学第一研究系)の装置を参考にさせていただいた。また、装置の立ち上げに際し、客員共同研究員として本研究室での研究に参加した同研究機構特任助教の水野智也博士にご協力いただいた。ここに記して謝意を表する。
3.搬送波包絡位相を制御したフェムト秒パルスを用いた原子分子中からの高次高調波発生
近年の超短パルスレーザー技術の進歩により、レーザー電場の包絡線のピークに対する振動電場の位相(搬送波包絡位相、Carrier-Envelope Phase: CEP)の固定された数サイクルパルスの発生が可能となり、高次高調波発生を始めとする光の1周期以内で起こる現象のCEP依存性を直接的に調べることも可能になってきた。昨年度は、CEPの制御された数サイクルパルスを用いた実験に先立って、CEPの制御されたパルス幅t ~ 25 fsのレーザー光を希ガス原子や配列した分子に集光照射して観測される高次高調波スペクトルを解析することにより高調波発生過程に関する新たな知見を得ることができた。 具体的には、高調波スペクトルをフーリエ変換して解析した結果、チャープしてスペクトルが広がった隣り合う奇数次高調波の同じ周波数成分が発生する時間差DTが高調波次数とともに減少していることが初めて明らかになった。 また、分子を試料とした場合に観測される干渉パターンのvisibilityは、alignmentあるいはanti-alignment状態にあるときの方がランダム状態にあるときよりも高くなることが明らかになった。 このことは、アト秒パルス列の発生において、分子配列がその制御パラメータになることを示唆している。 さらに、N2分子を用いた場合の方が、CO2分子を用いた場合よりも干渉パターンが明瞭であることも明らかになった。 この性質は、N2分子の最高被占分子軌道(Highest Occupied Molecular Orbital: HOMO)がsgの対称性をもつのに対し、CO2分子のそれがpgの対称性をもつことに起因していると考えられる。
今年度は、まずCEPの制御されたサブ7 fsパルスを用いた実験を行うために、真空チェンバー中に設置した凹面鏡でフェムト秒パルスを集光できる高次高調波発生装置を立ち上げた。 サブ7 fsパルスは、フェムト秒Ti:sapphireレーザー増幅システムから得られる25 fsパルスをNeを充填したホローコアファイバーに通すことにより、伝搬に伴う自己位相変調効果でスペクトルを広帯域化した後に、チャープミラー8枚(即ち、8 bounces)で分散補償して圧縮することにより発生させる。 さらに、数メートルに及ぶ空気中の伝搬や高調波発生装置の入射窓を通過する際の群速度分散によるパルスの広がりを高調波発生装置付近に設置した別のチャープミラー8枚(即ち、8 bounces)で分散補償して使用した。 高調波発生用のサブ7フェムト秒パルスのパルス幅と位相は、同じく高調波発生装置付近でSPIDER (spectral phase interferometry for direct electric-field reconstruction)法により測定した。 その結果、サブ10 fsパルスは比較的容易に得られるものの、サブ7 fsパルスを得るためには、フェムト秒Ti:sapphireレーザー増幅システムのコンプレッサー内の回折格子、チャープミラーの入射角やウェッジ板の挿入量などの微妙な調整が必要であることが分かった。 Ar原子や配列したN2分子を試料として高次高調波を観測し、高調波スペクトル中に現れる強度変調がCEPの変化に伴って周期pで移動することを確認できた。 現在、配列したN2分子中から発生する高次高調波スペクトルに、HOMOとその一つ下のHOMO-1からトンネルイオン化で生成された電子波束間の干渉効果がCEPの変化に伴いどのような形で発現するかなどを探索中である。
4.配列した分子中から発生する第3高調波の偏光特性
近年、配列した分子中から発生する高次高調波を観測することにより、分子軌道に関する情報を抽出する研究が大変注目されている。 Itataniらは、非断熱的に配列させたN2分子を用い、分子の配列方向に対し様々な方向に偏光したプローブ光を照射して発生する高調波のスペクトルを観測し、Fourier slice theoremに基づいて、N2分子の分子軌道を再構成して見せた(J. Itatani et al. Nature (London) 432, 867 (2004))。 本研究室では先に、配列した分子中からの高次高調波発生実験において、特にCO2分子を試料とした場合、再結合過程における電子のド・ブロイ波の量子干渉効果を世界で初めて観測することに成功した(T. Kanai et al., Nature (London) 435, 470 (2005))。観測された効果は、詳細な量子力学的計算でも再現されているが、直感的な描像として、CO2分子のHOMOの対称性(pg)を決めている両端のO原子近傍からトンネルイオン化した電子波束が再結合時に破壊的な干渉を起こす2中心干渉効果で説明できる。 本成果は、一分子中で光の一周期以内で起こる電子のド・ブロイ波の量子干渉効果という基礎物理学的な興味に加え、この量子干渉効果を用いることにより分子構造(核間距離)を1フェムト秒オーダーの極限的短時間精度で決定できることから当該分野で大変注目された。
最近Morishitaらは、時間依存Schrödinger方程式を数値的に解くことによって得られる正確な再衝突電子波束を用いることにより、高次高調波スペクトルから原子や分子の構造に関する情報を抽出できる可能性を指摘した(T. Morishita et al. Phys. Rev. Lett. 100, 013903 (2008))。 すなわち、高調波スペクトルS(w) を運動エネルギーの関数である再衝突電子波束W(E) とイオン化の逆過程である光放射再結合断面積 s(w)を用いてS(w) = W(E)s(w)のように表すことができ、高調波スペクトル S(w)を実験で観測し、数値計算から求められた正確な再衝突電子波束W(E) を用いることにより原子や分子の構造を反映した再結合断面積 s(w)を評価できると期待される。 ここで注意すべきことは、電子波束が再衝突して(特にカットオフに近い)高調波を発生するときは、レーザー電場強度がほぼゼロになっており、外部電場がないときの再衝突断面積 s(w)を評価できることである。このアプローチに従って、本研究室では電気通信大学量子・物質工学科の梅垣俊仁博士、森下亨博士、渡辺信一博士、および、カンザス州立大学物理学科のAnh-Thu Le博士との共同研究において、希ガス原子Ar, Kr, Xe中からの高次高調波スペクトルを観測し、正確な再衝突電子波束 W(E)を用いて再結合断面積 s(w)を評価するとともに、理論計算から求められた s(w)と比較することによりその妥当性を検証した (S. Minemoto, et al., Phys. Rev. A 78, 061402(R) (2008))。 上記の考え方をさらに発展させることにより、原子分子に関するいわゆる「完全実験」の目的である全ての双極子行列要素の振幅と位相を決めることも可能になると期待される。 直線分子については、配列した分子から発生する高次高調波の偏光特性を調べることにより、必要な情報を得ることができると考えられる。 しかし、高次高調波発生実験は真空中で行う必要があり、偏光特性などの評価は一般に困難である。 一方、波長800 nmパルスによる第3高調波(~267 nm)発生は空気中で行うことができ、ポラライザーなどの光学素子が利用できるため、偏光特性の評価も比較的容易である。
そこで昨年度は、配列したN2、O2、CO2分子から発生する第3 高調波が、分子の配列とともにどの様に変化するかを調べた。 波長800 nm、パルス幅100 fsのTi:sapphireレーザー光をマイケルソン干渉計に入れ、ポンプ光とプローブ光に分けた。 マイケルソン干渉計のプローブ光の経路にはステップ幅40 nmで動く光学台を設置し、2つの光の間に任意の時間差を付けられるようにした。 さらに、プローブ光側には1/2波長板を入れておき、プローブ光の偏光方向を自由に変えることができるようにした。 マイケルソン干渉計内で時間差を付けて再び同一光軸上に戻ったレーザー光をガスセルに入射した。 まずポンプ光がガスセル中の分子を配列させ、その後にプローブ光を配列した分子に入射して第3高調波を発生させた。 このとき、分子が配列しているときは、高調波発生の配列依存性に加え、配列した分子がもつ複屈折性のために、方向によっては位相整合条件を満たし、強い第3高調波を観測することができた。 気体分子は一度配列したのちにほぼランダムな状態となり、第3高調波の強度は減少するが、分子の回転運動にしたがって1/4周期ごとに再び配列するため、この周期で第3高調波の強度も再び増大する。 ポンプ光とプローブ光の間の遅延時間を分子の1回転周期程度まで変えながら、分光器とCCDカメラを用いて発生させた第3高調波のスペクトルを観測した。 このとき、観測するスペクトルは、偏光ビームスプリッターで特定の偏光方向成分だけを取り出して観測できるようにした。
原子中からの第3高調波発生の実験は数多く行われているが、この場合は対称性からプローブ光の偏光成分と同じ偏光成分をもつ高調波が発生し、これと直交する偏光成分はほとんどない。 昨年度は、特にCO2分子の場合には、ある条件下で高調波の偏光成分のうち、プローブ光の偏光成分と直交する方向の偏光成分の方がより強い強度になることを発見した。 このため、今年度はプローブ光の楕円率を増加させたときに、第3高調波の偏光状態がどのように変化するかを詳細に調べた。 イオン化ポテンシャルがほぼ等しいArとN2分子を比較すると、Arから発生する第3高調波の偏光状態は、プローブ光の楕円率を0.1未満から0.36まで増加させても(プローブ光の楕円率の変化範囲は以下同じ)楕円率は比較的小さいままであり、orientation angle (楕円偏光の長軸の傾き角)はほぼ0のままであった。 これに対し、aligned N2から発生する第3高調波の偏光状態は、プローブ光の楕円率が0.2付近のときに楕円率の大きな楕円偏光となり再び減少する特徴的な変化を示した。 また、orientation angleは、プローブ光の楕円率が0.2の前後で0度から90度に急激に変化した。 anti-aligned N2から発生する第3高調波の楕円率は、プローブ光の楕円率の増加とともに緩やかに増加し、プローブ光の楕円率が0.3付近でピークとなり再び減少し始めた。 orientation angleは、プローブ光の楕円率の増加とともに単調に増加し続けた。 一方、HOMOの対称性が同じO2分子とCO2分子を比較すると、anti-aligned CO2からの第3高調波を除き、楕円率はプローブ光の楕円率が0.12付近で楕円率の大きな楕円偏光となり、orientation angleもプローブ光の楕円率が0.12付近で急激に増大し最終的に90度に近づいた。 anti-aligned CO2からの第3高調波の偏光状態は、楕円率がピークとなりorientation angleが急激に変化するプローブ光の楕円率が0.2付近であったことを除き、定性的には他の場合と同様の変化を示した。 O2とCO2から発生する第3高調波の偏光特性が定性的に似ているのは、ともにHOMOの対称性がpgであるため、プローブ光によって誘起され第3高調波の発生に寄与する非線形分極の性質が似ているためと定性的には解釈できるであろう。 さらに、O2とCO2に加え、aligned N2から発生する第3高調波の偏光特性も似ている (即ち、今回調べた中ではanti-aligned N2から発生する第3高調波の偏光特性のみが異なる)と見ることもできる。 まだ断定するには至らないが、類似している分子の配列状態ではHOMOがプローブ光の楕円偏光の長軸に垂直な面を節としてもつのに対し、anti-aligned N2だけがプローブ光の楕円偏光の長軸に垂直な面に節をもたないことが関与している可能性もある。 今回の実験はガスセル中で行ったものであり、第3高調波の発生には一般に位相整合効果が寄与していると考えられる。 今後、異なるガス圧での観測や位相整合効果が比較的小さく単一分子の寄与をより観測しやすいパルス分子線を利用した観測を行うとともに、理論計算との比較を行うことにより新しい分子構造のイメージング手法としての可能性を探究する。
配列した分子中から発生する第3高調波の偏光特性について有益な議論をしていただいた 米国Northwestern大学のTamar Seideman教授とPaul Sherratt博士に謝意を表する。
5.その他
今年度は修士2名を輩出した。ここで報告した研究成果は、研究室のメンバー全員と学部4年生の特別実験で本研究室に配属された堀田義仁君、横山晴道君(夏学期)、及び、堀之内裕理君、山本真吾君(冬学期)の活躍によるものである。
なお、今年度の研究活動は、科学研究費補助金の特別推進研究「配向制御技術で拓く分子の新しい量子相の物理学」(課題番号21000003、研究代表者:酒井広文)に加え、文部科学省「光・量子科学研究拠点形成に向けた基盤技術開発 最先端の光の創成を目指したネットワーク研究拠点プログラム」、及び、「最先端研究基盤事業 コヒーレント光科学研究基盤の整備」からの支援も受けて行われたものである。ここに記して謝意を表する。