2008年度
本研究室では、 (1)高強度レーザー電場を用いた分子操作、 (2)整形された超短パルスレーザー光による原子分子中の量子過程制御、 (3)高次の非線形過程(多光子イオン化や高次高調波発生など)に代表される超短パルス高強度レーザー光と原子分子等との相互作用に関する研究、 (4)アト秒領域の現象の観測とその解明を中心に活発な研究活動を展開している。
始めに、分子の配列と配向の意味を定義する。 分子の頭と尻尾を区別せずに分子軸や分子面を揃えることを配列(alignment)と呼び、 頭と尻尾を区別して揃えることを配向(orientation)と呼ぶ。 英語では混乱はないが、日本語では歴史的経緯からしばしば逆の訳語が使用されて来たので注意する必要がある。 また、実験室座標系で分子の向きを規定する三つのオイラー角のうち、一つを制御することを1次元的制御と呼び、三つとも制御することを3次元的制御と呼ぶ。 以下に、研究内容の経緯とともに、本年度の研究成果の概要を述べる。
1.レーザー光を用いた分子配向制御技術の新展開
本研究室では、レーザー技術に基づいた分子操作と配列あるいは配向した分子試料を用いた応用実験を進めている。分子の向きが揃った試料を用いることが出来れば、従来、空間平均を取って議論しなければならなかった多くの実験を格段に明瞭な形で行うことが出来る。そればかりでなく、化学反応における配置効果を直接的に調べることができるのを始めとし、物理現象における分子軸や分子面とレーザー光の偏光方向との相関や分子軌道の対称性や非対称性の効果を直接調べることができるなど、全く新しい実験手法を提供できる。実際、配列した分子試料の有効性は、I2分子中の多光子イオン化過程を、時間依存偏光パルスを用いて最適制御することに成功したり (T. Suzuki et al., Phys. Rev. Lett. 92, 133005 (2004))、 配列した分子中からの高次高調波発生実験において、電子のド・ブロイ波の打ち消しあいの干渉効果を観測することに成功したり (T. Kanai et al., Nature(London) 435, 470 (2005)) するなどの、本研究室の最近の成果でも実証されている。
分子の配向制御については、静電場とレーザー電場の併用により、既に1次元的および3次元的な分子の配向が可能であることの原理実証実験に成功した。これらの実験は、分子の回転周期に比べてレーザー光のパルス幅が十分長い、いわゆる断熱領域で行われたものである。この場合、分子の配向度は、レーザー強度に追随して高くなり、レーザー強度が最大のときに配向度も最大となる。一方、光電子の観測や高精度の分光実験では、高強度レーザー電場が存在しない状況で試料分子の配向を実現することが望まれる。本研究室では、静電場とレーザー電場の併用による手法が断熱領域で有効なことに着目し、分子の回転周期Trotに比べて立ち上がりのゆっくりしたパルスをピーク強度付近で急峻に遮断することにより、断熱領域での配向度と同等の配向度を高強度レーザー電場が存在しない状況下で実現する全く新しい手法を提案した(Y. Sugawara et al., Phys. Rev. A 77, 031403(R) (2008))。昨年度、ピーク強度付近で急峻に遮断されるようなパルスをプラズマシャッターと呼ばれる手法を用いて整形する技術を開発し、レーザー電場の存在しない条件下で分子配向を実現することに初めて成功した(A. Goban, et al., Phys. Rev. Lett. 101, 013001 (2008))。
一方、本研究室ではさきに、分子の回転周期よりも十分長いパルス幅をもつ高強度非共鳴2波長レーザー電場を用いて断熱的に分子配向を実現する手法を提案していた(T. Kanai and H. Sakai, J. Chem. Phys. 115, 5492 (2001))。この手法では、使用するレーザーの周波数がパルス幅の逆数よりも十分大きな場合には、分子の永久双極子モーメントとレーザー電場との相互作用はパルス幅にわたって平均するとゼロとなる。したがって、分子の配向に寄与しているのは分子の超分極率の異方性とレーザー電場の3乗の積に比例する相互作用、すなわち、それによって形成されるポテンシャルの非対称性である点に注意する必要がある。
今年度は、この手法に基づいて、2波長レーザー電場を用いてOCS分子を配向制御することに初めて成功した。実験の概略はつぎのとおりである。高強度2波長レーザー電場には、ナノ秒Nd:YAGレーザーの基本波(波長l = 1064 nm)とその第2高調波(l = 532 nm)を用いた。1/2波長板を用いて2波長の偏光方向を平行にして実験に使用した。2波長間の相対位相は溶融石英板の回転により制御した。2波長レーザー光を色消しレンズで集光し、真空チェンバーの相互作用領域に導いた。典型的なピーク強度は各波長について、1 x 1012W/cm2である。分子試料にはHeで5%希釈されたOCS分子を用い、パルスバルブを用いて超音速分子線として供給した。分子が配向している様子は、velocity map型の2次元イオン画像化装置を用いて観測した。2波長レーザー光のピーク強度付近で高強度フェムト秒Ti:sapphireレーザーパルス(ピーク強度~ 7 X 1015 W/cm2)を集光照射することにより、OCS分子を多価イオン化し、クーロン爆裂で生成されるフラグメントイオンの角度分布を観測した。2波長レーザーパルスによって配向した分子のみを検出する為に、Ti:sapphireレーザー光の光路にテレスコープを挿入してビーム径を制御し、Ti:sapphireレーザー光の集光径が2波長レーザー光の集光径よりも小さくなるように調整した。2波長レーザー光の偏光方向は検出器面に平行にし、Ti:sapphireレーザー光のそれは、多光子イオン化率の角度依存性の影響を避ける為、検出器面に垂直にした。2次元検出器はマイクロチャンネルプレートと蛍光板で構成されており、蛍光板のイメージをCCDカメラで撮影した。
最も大きな配向度が観測されたときの相対位相差を便宜的にとするとき、CO+フラグメントのイオン画像は、上側の強度が高くなっているのに対し、S+フラグメントのイオン画像は、下側の強度が高くなっていることが確認できた。また、のときは、のときと逆に、CO+フラグメントのイオン画像は、下側の強度が高くなっているのに対し、S+フラグメントのイオン画像は、上側の強度が高くなっていることが確認できた。さらに、配向度の指標である<cosq>(qは、2波長レーザー光の偏光方向と分子軸のなす角)を、相対位相差の関数として測定すると、CO+フラグメントとS+フラグメントの<cosq>が、を周期として互いに逆位相で変化している様子が確認できた。これらの観測結果は、高強度非共鳴2波長レーザー電場を用いて、OCS分子の配向制御が実現していることの明確な証拠と解釈することができる。現在、試料分子の初期回転温度を下げたり、2波長レーザー光の強度を上げて配向度の増大を図るとともに、OCS以外の分子を試料とし、非共鳴過程を利用していることによる汎用性の実証を進めている。本成果は分子の配向制御の手法として、静電場を使用しない初めての手法が開発されたことを意味し、その意義は、極めて大きい。化学反応における立体ダイナミクス、分子内電子の立体ダイナミクス、アト秒科学、表面科学、分子スイッチなどへの応用が期待される。さらに、本手法で達成された配向度を数値シミュレーションの結果と比較することにより、これまで理論化学計算でしか評価することができなかった分子の超分極率を初めて実験的に評価できる手法として利用できる可能性があり、理論化学計算で得られた結果の妥当性の評価にも役立つと期待される。
上記の2波長レーザー電場を用いた分子配向制御の実験は、ナノ秒レーザーパルスを用いて、いわゆる断熱領域で行われたものであり、分子配向はナノ秒レーザー電場中で実現する。次なる課題はレーザー電場だけでなく静電場も存在しな完全にフィールドフリーな条件下で分子配向を実現することである。この目的を実現するために、本研究室では先に、ピーク強度付近で急峻に遮断される高強度非共鳴2波長レーザー電場を用いる手法を新たに提案し、数値計算により、この手法の有効性を明らかにするとともにその背景となる物理について考察した(M. Muramatsu, et al., Phys. Rev. A 79, 011403(R) (2009))。今後、2波長レーザー光に対するプラズマシャッター技術を開発し、完全にフィールドフリーな条件下での分子配向制御の実現を目指す。
2.長波長レーザー電場の併用による高次の和・差周波発生
本研究室では先に、高次高調波発生の基本波として用いるフェムト秒Ti:sapphireレーザー光(波長l ~ 800 nm)よりも波長が長く、強度が2桁以上低く、それ自身の高調波は発生しないナノ秒Nd:YAGレーザー光(l = 1064 nm)を併用すると、YAGレーザー光の光子が1つあるいは2つ関与した和周波や差周波が高効率で発生することを見出した(Y. Nomura et al., Phys. Rev. A 75, 041801(R) (2007))。併せて行った理論計算に基づいて、高調波発生のための基本波よりも長波長側に高次の和周波や差周波の発生効率を著しく高める波長領域があることも指摘した。
昨年度は、パルス幅60 fs程度の光パラメトリック増幅器(OPA)からの出力である波長1300 nmの光を併用し、高次の和周波と差周波の発生について実験的および理論的研究を行った。60 fs程度のパルス幅の利用により、ナノ秒YAGレーザー光のときと比べ、媒質が絶縁破壊を起こす強度を大きく高めることができ、高調波発生用のTi:sapphireレーザー光の強度と同程度の強度を利用することができるようになった。実際、800 nm光と1300 nm光の強度がともに1.0 x 1014 W/cm2で両者の偏光が平行のとき、最大8光子の1300 nm光が関与する高次の和周波や差周波を観測できた。2波長Lewensteinモデルに基づいて、任意の偏光の組み合わせや非摂動的な強度の光を併用する場合にも適用できるなどの改良を加えたモデルを構築し、実験結果の特徴を説明することができた。また、800 nm光と1300 nm光の偏光が直交しているときに、1300 nmの光子が奇数個関与する和周波よりも偶数個関与する和周波の方が高効率に発生することを実験で初めて検証した。これは、パリティー保存の性質から発生する和周波の偏光が決まることを反映した結果であり、非摂動論的領域における高次の非線形光学効果における極めて重要な結果である。
本年度は、光パラメトリック増幅器の出力が波長可変であることを生かして、高次の和周波や差周波出力に対する併用する長波長パルスの波長依存性を調べた。本研究では、Ti:sapphireレーザーパルスとOPAパルスの偏光方向を平行にして実験を行った。実験では、OPAの波長l2が600 nm~1500 nmの範囲の六つの波長を用い、和・差周波スペクトルを観測した。OPAの強度はほぼ一定になるように努めたが、完全に一致させることは困難であった。このOPA強度の違いを規格化して和・差周波発生の効率の波長依存性の情報を抽出する為に、以下のような独自の解析手法を導入した。まず、波長l2 ~ 1300 nmのOPAパルスを用い、Ti:sapphireパルスの強度I1 ~ 1 x 1014W/cm2に対して摂動的な強度(I2 ≤ 2 x 1012 W/cm2)の関数として和・差周波強度を観測したところ、I2の増大とともに、OPA光子をより多く含む和周波や差周波が順に増大する様子が観測された。この結果をレート方程式に基づくモデルで解析したところ、実験結果をよく再現し、その妥当性が確認できた。レート方程式を解くと、関与するOPA光子数の隣合う和周波の強度比が、(ここで、I2SFおよびI1SFは、それぞれOPA光子を2つおよび1つ含む和周波強度、kは効率に相当する係数、FはOPAの強度に比例する光子数密度である)のように表すことができる。このため、OPA強度に比例する光子数密度で和周波の強度比を規格化すれば効率に相当する係数kの比較が可能になる。
こうして、各OPA波長について関与するOPA光子数の隣合う和周波の規格化された強度比を直近のTi:sapphireパルスの高調波次数の関数としてプロットすると、Ti:sapphireパルスの波長l1 ~ 800 nmよりも長い(短い)OPA波長の場合には高調波次数の増大とともに、ほぼ指数関数的に増大(減少)することが明らかになった。そこで、さらにその傾きをOPAパルスの波長l2の関数としてプロットすると、l2の増大とともに、単調増加することが確認でき、l2の増大とともに、より高次の高調波領域に向かって和周波の発生効率が増大することが確認できた。これらの一連の観測および解析結果は定性的に以下のように理解することができる。実験では主としていわゆるshort trajectoryを選択する位相整合条件を採用したが、この場合、高調波次数が高いほどトンネルイオン化した電子波束の飛行時間は単調に増大する。したがって、Ti:sapphireパルスの波長l1 ~ 800 nmよりも長波長のOPAパルスが存在すると電子波束が同一方向に加速される時間が長くなり、和周波や差周波の効率的な発生に寄与すると考えることができる。実験では、二つの波長は整数比でなく、また相対位相もロックされていないので、相対位相については平均されたものを観測していることになるが、長波長のOPAパルスが存在すると電子波束が同一方向に加速される時間が長くなる機会が確率的に増大するはずであり、上記の説明は定性的には妥当であると考えられる。本研究で得られた知見は、高次高調波や高次の和・差周波発生のより深い理解に資するのみならず、2波長レーザーパルスを用いたカットオフ近傍の極端紫外~軟X線パルスの高出力化の観点からも重要である。
3.高次高調波スペクトルを用いた希ガス原子イオンの再結合断面積の評価
近年、配列した分子中からの高次高調波スペクトルを用いた分子軌道のイメージングに関する研究が大変注目を集めている。多くの場合、イメージングの為の解析に際し、再衝突電子波束として平面波が用いられているが、1 keV程度以下の高調波の光子エネルギーに対しては、平面波近似の妥当性が問題視されることが多い。最近Morishitaらは、時間依存Schrödinger方程式を数値的に解くことによって得られる正確な再衝突電子波束を用いることにより、高次高調波スペクトルから原子や分子の構造に関する情報を抽出できる可能性を指摘した。すなわち、高調波スペクトルを運動エネルギーの関数である再衝突電子波束とイオン化の逆過程である光放射再結合断面積を用いてのように表すことができ、高調波スペクトルを実験で観測し、数値計算から求められた正確な再衝突電子波束を用いることにより原子や分子の構造を反映した再結合断面積を評価できると期待される。ここで注意すべきことは、電子波束が再衝突して高調波を発生するときは、レーザー電場強度がほぼゼロになっており、外部電場がないときの再衝突断面積を評価できることである。
本研究では、希ガス原子Ar, Kr, Xe中からの高次高調波スペクトルを観測し、正確な再衝突電子波束を用いて再結合断面積を評価するとともに、理論計算から求められたと比較することによりその妥当性を検証した(S. Minemoto, et al., Phys. Rev. A 78, 061402(R) (2008))。高調波スペクトルの観測においては、位相整合条件や再吸収の影響が極力低減された単一原子応答を反映した高調波スペクトルを観測することが本質的に重要であり、できるだけ希薄な希ガス媒質を用いるとともに、位相整合条件の設定に注意を払った。まず、フェムト秒Ti:sapphireレーザー増幅システムからの出力(波長l ~ 800 nm)を用いて実験を行ったところ、上記の手続きで評価した再結合断面積が理論計算から求められたものとよく一致することが確認できた。特に、Arを媒質とした場合、光子エネルギー~ 50 eV近傍に、Ar原子の構造に由来するCooper minimumに対応する極小値が確認できた。KrやXeにもCooper minimumに対応する極小値の存在が知られているが、今回の実験で観測された高調波スペクトルはそれらのエネルギー領域には達しておらず、直接確認することはできなかった。
再結合断面積の評価に上記の手続きを適用する場合、高調波発生用の基本波として特定の波長を使用する必要はないはずである。そこで、光パラメトリック増幅器からの出力(l ~ 1300 nm)を用いた高調波スペクトルの観測も行った。長波長の基本波を用いた場合、高調波発生のスケーリング則から高調波信号は一般に微弱になる。このため、800 nmの基本波を用いた場合よりも高い媒質密度を用いる必要があった。その結果、ArやKrを用いた場合には、光子エネルギー~ 35 eV程度までの低エネルギー領域では媒質による再吸収の効果が見られたものの、ArにおけるCooper minimumの存在も含め、800 nmの基本波を用いた場合と両立し、理論計算の結果ともよく一致する結果が得られることが確認できた。今後、この手法を分子にも適用できるように理論計算の進展が期待される。
本研究は、電気通信大学量子・物質工学科の梅垣俊仁博士、森下亨博士、渡辺信一博士、および、カンザス州立大学物理学科のAnh-Thu Le博士との共同研究である。
4.その他
本年度は修士課程の大学院生2名が加入する一方、修士3名を輩出した。ここで報告した研究成果は、研究室のメンバー全員と学部4年生の特別実験で本研究室に配属された神谷隆之君、鈴木美大君(以上夏学期)、グウェンタンフク君、若月琢馬君(以上冬学期)の活躍によるものである。グウェンタンフク君は、平成20年度理学部学修奨励賞を受賞した。
なお、本年度の研究活動は、科学研究費補助金、基盤研究(A) 「配列または配向した分子中からの高次高調波発生とその物理」 (課題番号19204041、研究代表者:酒井広文)によって行われた。 また、年度の後半には、 文部科学省「光・量子科学研究拠点形成に向けた基盤技術開発 最先端の光の創成を目指したネットワーク研究拠点プログラム」からも支援を受けた。ここに記して謝意を表する。