2021年度

2021年酒井(広)研究室年次報告

本研究室では、(1) 高強度レーザー電場を用いた分子操作、(2) 高次の非線形光学過程 (多光子イオン化や高次高調波発生など)に代表される超短パルス高強度レーザー光と原子分子等との相互作用に関する研究、(3) アト秒領域の現象の観測とその解明、(4) 整形された超短パルスレーザー光による原子分子中の量子過程制御を中心に活発な研究活動を展開している。

始めに、分子の配列と配向の意味を定義する。分子の頭と尻尾を区別せずに分子軸や分子面を揃えることを配列 (alignment) と呼び、頭と尻尾を区別して揃えることを配向 (orientation) と呼ぶ。英語では混乱はないが、日本語では歴史的経緯からしばしば逆の訳語が使用されて来たので注意する必要がある。また、実験室座標系で分子の向きを規定する三つのオイラー角のうち、一つを制御することを1次元的制御と呼び、三つとも制御することを3次元的制御と呼ぶ。

以下に、研究内容の経緯とともに、今年度の研究成果の概要を述べる。特に「1. レーザー光を用いた分子配向制御技術の進展 — 従来の経緯」は、昨年度と重複する部分があるが、研究の進展を概観するために必要な内容であるので、ご理解いただきたい。

1. レーザー光を用いた分子配向制御技術の進展

従来の経緯

本研究室では、レーザー光を用いた気体分子の配向制御技術の開発と配列あるいは配向した分子試料を用いた応用実験を進めている。分子の向きが揃った試料を用いることが出来れば、従来、空間平均を取って議論しなければならなかった多くの実験を格段に明瞭な形で行うことが出来る。そればかりでなく、化学反応における配置効果を直接的に調べることができるのを始めとし、物理現象における分子軸や分子面とレーザー光の偏光方向との相関や分子軌道の対称性や非対称性の効果を直接調べることができるなど、全く新しい実験手法を提供できる。実際、配列した分子試料の有効性は、I2分子中の多光子イオン化過程を、時間依存偏光パルスを用いて最適制御することに成功したり(T. Suzuki et al., Phys. Rev. Lett. 92, 133005 (2004))、配列した分子中からの高次高調波発生実験において、電子のド・ブロイ波の打ち消しあいの干渉効果を観測することに成功したり(T. Kanai et al., Nature (London) 435, 470 (2005))するなどの、本研究室の成果でも実証されている。

分子の配向制御については、始めに静電場とレーザー電場の併用により、1次元的および3次元的な分子の配向が可能であることの原理実証実験に成功した。これらの実験は、分子の回転周期に比べてレーザー光のパルス幅が十分長い、いわゆる断熱領域で行われたものである。この場合、分子の配向度は、レーザー強度に追随して高くなり、レーザー強度が最大のときに配向度も最大となる。一方、光電子の観測や高精度の分光実験では、高強度レーザー電場が存在しない状況で試料分子の配向を実現することが望まれる。本研究室では、静電場とレーザー電場の併用による手法が断熱領域で有効なことに着目し、分子の回転周期Trotに比べて立ち上がりのゆっくりしたパルスをピーク強度付近で急峻に遮断することにより、断熱領域での配向度と同等の配向度を高強度レーザー電場が存在しない状況下で実現する全く新しい手法を提案した(Y. Sugawara et al., Phys. Rev. A 77, 031403(R) (2008))。この手法を実現すべく、ピーク強度付近で急峻に遮断されるパルスをプラズマシャッターと呼ばれる手法を用いて整形する技術を開発し、レーザー電場の存在しない条件下で分子配向を実現することに初めて成功した(A. Goban et al., Phys. Rev. Lett. 101, 013001 (2008))。

一方、本研究室では先に、分子の回転周期よりも十分長いパルス幅をもつ高強度非共鳴2波長レーザー電場を用いて断熱的に分子配向を実現する手法を提案していた(T. Kanai and H. Sakai, J. Chem. Phys. 115, 5492 (2001))。この手法では、使用するレーザーの周波数がパルス幅の逆数よりも十分大きな場合には、分子の永久双極子モーメントとレーザー電場との相互作用はパルス幅にわたって平均するとゼロとなる。したがって、分子の配向に寄与するのは分子の超分極率の異方性とレーザー電場の3乗の積に比例する相互作用、すなわち、それによって形成されるポテンシャルの非対称性である点に注意する必要がある。

この手法に基づいて、2波長レーザー電場を用いてOCS分子を配向制御することにも初めて成功した(K. Oda et al., Phys. Rev. Lett. 104, 213901 (2010))。さらに、C6H5I分子を用い、本手法の汎用性の実証も行った。一方、Even-Lavie valveを用いても、OCSやC6H5I分子の配向度は、0.01のオーダーであり、劇的な配向度の増大を図ることは困難であることが明らかになった。この困難は、回転量子状態がBoltzmann分布しているthermal ensembleでは、いわゆるright wayに向く状態とwrong wayに向く状態が混在していることに起因している。本研究室では、配向した分子試料を用いた「分子内電子の立体ダイナミクス(electronic stereodynamics in molecules)」に関する研究の推進を目指しており、配向度の高い分子試料の生成が不可欠である。そこで、初期回転量子状態を選別した試料に対し、静電場とレーザー電場を併用する手法や非共鳴2波長レーザー電場を用いる手法により高い配向度の実現を目指すこととした。そして、主として対称コマ分子の状態選別に適した六極集束器 (hexapole focuser) と主として非対称コマ分子の状態選別に適した分子偏向器 (molecular deflector)を組み込んだ実験装置を立ち上げた。その後、回転量子状態を選別した試料を用い、静電場とレーザー電場を併用する手法や2波長レーザー電場のみを用いる全光学的な手法により、分子配向度の向上を実現した上で、配向した分子試料を用いた「分子内電子の立体ダイナミクス」研究のさらなる推進を目指している。

先ず、初期回転量子状態を選別した非対称コマ分子(C6H5I)を試料とし、静電場とレーザー電場を併用する手法を用いて世界最高水準の高い配向度を達成することに成功した。さらに、プラズマシャッター技術を導入し、初期回転量子状態を選別した分子のレーザー電場のない条件下での1次元的配向制御に世界で初めて成功した(J. H. Mun et al., Phys. Rev. A 89, 051402(R) (2014))。次いで、静電場と楕円偏光したレーザー電場の併用により、レーザー電場の遮断直後にレーザー電場の存在しない条件下での3次元的な配向制御の実現に世界で初めて成功した(D. Takei et al., Phys. Rev. A 94, 013401 (2016))。この成果は、高い配向度、レーザー電場の存在しない条件下での配向制御、及び、非対称コマ分子の向きの完全な制御である3次元的な配向制御の3条件を満たし、静電場とレーザー電場を併用する手法の「完成形」の実現を意味している。

その後、上述した非共鳴2波長レーザー電場を用いる全光学的な配向制御手法にプラズマシャッター技術を適用することにより、静電場も存在しない完全にフィールドフリーな条件下での配向制御技術の開発を進めている。2波長レーザー電場を用いた全光学的な配向制御の実験は、静電場とレーザー電場を併用する手法と比べると、光学系の構成は複雑となる。2波長レーザー電場としては、ナノ秒Nd:YAGレーザーの基本波(波長λ = 1064 nm)とその第2高調波(λ = 532 nm)を使用する。注意深く予備実験を進めた結果、ナノ秒Nd:YAGレーザーの基本波とその第2高調波を利用した分子配向制御においては、基本波のパルス幅よりも第2高調波のパルス幅の方が短いため、基本波が先に立ち上がり始めることが配向度の効率的な向上を妨げている原因の一つであることを明らかにした。これは、基本波パルスのみが先に立ち上がると対称な2重井戸ポテンシャルが形成されて分子配列のみが進行し、遅れて第2高調波パルスが立ち上がり非対称ポテンシャルの形成が始まっても断熱的に配向を制御するメリットを活かすことができないためである。

最近の進展
(実験)

この困難を克服するために、干渉計型の光学遅延路を設置し、基本波パルスに約1.8 nsの遅延を導入することにより2波長間の立ち上がりのタイミングを合わせた。データ取得のための工夫をして解析をした結果、配向度| < cos θ > | ~ 0.34を達成することに成功した。この配向度は、プローブ光による試料分子の多価イオン生成過程における配向依存性の効果を避けるため、プローブ光の偏光を検出器面に垂直にして観測した配向度として世界で最も高い値である。今年度、上記の配向度| < cos θ > | ~ 0.34の妥当性をχ 2検定と最小二乗法により慎重に検証した。この成果は、The Journal of Chemical Physics の Communication (Md. Maruf Hossain, Xiang Zhang, Shinichirou Minemoto, and Hirofumi Sakai, “Stronger orientation of state-selected OCS molecules with relative-delay-adjusted nanosecond two-color laser pulses,” J. Chem. Phys. 156, 041101 (7 pages) (2022)) に発表した。

(数値計算)

 

-直線偏光した基本波パルスと楕円偏光した第2高調波パルスの組み合わせによる配向制御-

これまでの研究で、パルス幅10 ns程度のNd:YAGレーザーパルスを用いても配向のダイナミクスが非断熱的であることが明らかになった。したがって、単に基本波と第2高調波の強度を上げるだけでは高い配向度を達成することはできない。この様な状況でも配向度を上げることができる手法として、最近、直線偏光した基本波パルスと楕円偏光した第2高調波パルスの組み合わせが、配向度の向上に有効な「一般化された組み合わせ」であることを明らかにした(Md Maruf Hossain and Hirofumi Sakai, J. Chem. Phys. 153, 104102 (2020))。第2高調波パルスを楕円偏光とすることにより、相互作用ポテンシャルが、極角θに加え、方位角φにも依存する3次元的な形状となり、非対称ポテンシャル間の障壁が方位角φに沿って低い領域が生成され、配向状態へのトンネル遷移の確率が上昇することがポイントであり、利用可能な第2高調波パルスの強度に応じて、配向度の向上を期待することができる点が大きな特長である。楕円偏光した第2高調波パルスを用いていることから、
自然な形で3次元的配向制御に拡張できる。そこで、今年度は直線偏光した基本波パルスと楕円偏光した第2高調波パルスの組み合わせで3次元的な配向制御のダイナミクスを調べるため、数値計算コードの開発を行った。具体的には、相互作用ハミルトニアンの導出、必要な行列要素の計算を行った上で、高次のCrank-Nicolson法を用いて数値計算コードを開発した。今後、開発した計算コードを利用して、代表的な試料分子の3次元的配向制御のダイナミクスを調べ、実験のための基礎データとして活用する。数値計算コードの開発にあたり、学部4年生の特別実験IIで配属された江崎蘭世君が特に貢献した。

2. マクロな3回対称性をもつ分子アンサンブルの生成

最近、気体分子に対する既存の配列・配向制御技術と概念的に異なる全く新しい分子アンサンブルの生成法を考案した。互いに逆回りに円偏光した基本波パルスと第2高調波パルスを重ね合わせると、3回対称な電場トラジェクトリーが形成される。この様な特異な電場トラジェクトリーとBX3 (X=F, Cl, Br, I) の様な点群D3hに属する分子の超分極率相互作用によって、試料分子の三つの腕を3回対称な電場の向きに揃え、マクロな3回対称性をもつ分子アンサンブルを生成できる。実験的に実現可能な回転温度とレーザー強度を仮定して、有意なオーダーパラメータを達成できることを数値計算で確認した (H. Nakabayashi, W. Komatsubara, and H. Sakai, Phys. Rev. A 99, 043420 (2019))。

上述したマクロな3回対称性をもつ分子アンサンブルの生成を、実験でも初めて実現することを目指している。円偏光面内に3回対称性をもつ分子アンサンブルが生成されている様子をクーロン爆裂イメージングで観測するためには、円偏光面と垂直な検出器面をもつ既存の速度マップ型イオン画像化装置を用いることはできず、専用の装置開発が必要である。高強度フェムト秒プローブパルスによるクーロン爆裂で生成されたフラグメントイオンをまずイオン光学の原理で引き出してから、2次元イオン検出器面に射影すればよい。最近、この様な実験装置を開発し、所期の性能が得られることを確認した。

昨年度までに、OCS分子を試料とした予備的な実験を行うことにより、実験条件の最適化を進めた。OCS分子の様な直線分子でも、3回対称な分子アンサンブルを生成できることは、数値計算で確認済みである。予備的な実験では、フラグメントイオンの引き出し電極への印加電圧の最適化、互いに逆回り円偏光したナノ秒Nd:YAGレーザーの基本波パルスと第2高調波パルスの偏光状態の最適化、プローブ用フェムト秒Ti:sapphireレーザーパルスの偏光状態の最適化(できるだけ完全な円偏光が望ましい)などを進めた。併せて、フラグメントイオンの観測と同時にナノ秒Nd:YAGレーザーの2波長間の相対位相の安定性をモニターできるシステムも構築した。今年度、試料分子として3ヨウ化ホウ素 BI3を用い、マクロな3回対称性をもつ分子アンサンブルの生成を示唆するデータの取得に成功した。より長時間データを蓄積することにより、異論の余地のないより統計のよいデータを取得するためには、2波長間の相対位相を長時間にわたり安定化する必要があることが明らかになった。そこで、元の第2高調波と基本波からKD*P結晶で発生させた第2高調波との干渉信号をPIDフィードバック制御することにより、2波長間の相対位相として±6度以内の安定度、3回対称性をもつ電場トラジェクトリーの各ローブの角度の安定度として±2度以内を達成することに成功した。一方、試料分子として当初使用していた3ヨウ化ホウ素BI3は、水分との反応性が高く、予め試料のreservoirに少し多めに装填すると分子線バルブが直ぐ詰まる、それを避けるために少量装填すると直ぐに試料自体がなくなるなど、ハンドリングが極めて難しい。そのため、最近ハンドリングの容易な空気中で安定な試料に変更して実験を進めている。次年度に異論の余地のないより統計のよいデータを取得することにより、世界初の3回対称性をもつ分子アンサンブル生成の原理実証を目指す。

3. 非共鳴2波長レーザーパルスを用いたpendular qubit statesの制御

項目1.で述べた通り、パルス幅10 ns程度の非共鳴2波長レーザーパルスを用いても配向のダイナミクスが非断熱的であることが明らかになった。このことは高い配向度を達成する観点からは望ましいことではないが、この非断熱的な配向のダイナミクスを利用して、pendular qubit statesを制御する手法を提案した。非共鳴な2波長レーザー電場によってpendular qubit statesを制御できるので、共鳴遷移を利用する他の手法と比べ、気体分子の配向状態が量子計算のより汎用性の高いプラットフォームの選択肢の一つとなることを意味する。ここでは、試料としてOCS分子を考える。始めに分子偏向器を用いて、回転基底状態| 0,0 >を用意し、ナノ秒の2波長レーザーパルスを照射する。2波長パルスの前半部では、上述した通り実質的に基本波のみがOCS分子と相互作用を開始し、pendular回転基底状態| ~0, ~0 > となる。しばらくして、第2高調波パルスの強度が高くなると、| ~0, ~0 > 状態と | ~1, ~0 > 状態に分裂し、それら2状態の重ね合わせ状態が形成される。2状態の分布は、レーザーパルスのピーク強度付近では、一定の強度以上では50\%ずつとなる。最終的にレーザーパルスが通過すると、分子配向のダイナミクスが非断熱的であるため、元の回転基底状態には戻らず、2状態間の重ね合わせ状態が維持される。
このレーザーパルスが通過後の2状態の分布は、例えば第2高調波の強度を一定にし、基本波の強度を変化させるとその強度に応じて原理的には0%から100%まで自在に制御できることを数値計算で示した。この性質は、非共鳴ナノ秒2波長レーザーパルスのみを用いる全光学的な手法により、pendular qubit statesを制御できることを意味する。上述した通り、共鳴遷移を利用する手法と比べ、圧倒的に汎用性が高い手法となる。今回提案した手法の実現可能性(feasibility)は、配列度と配向度の測定により確認した。第2高調波の強度を2.0×1011 W/cm2に固定し、基本波の強度を1.7×1011 W/cm2から5.0×1011} W/cm2に上げたとき、配列度は上昇する一方、配向度は減少することを確認した。この観測結果は配列のダイナミクスは概ね断熱的であるのに対し、配向のダイナミクスは非断熱的であることを意味し、実際にpendular qubit statesの制御が可能であることを支持する。
本研究は、本研究室のOBで、現在韓国浦項工科大学のグループリーダーを務めるJe Hoi Mun氏らとの共同研究である。

4. その他

本年度は、修士1名(Ke Tong君)を輩出した。ここで報告した研究成果は、酒井広文研究室のメンバーと客員共同研究員として受け入れたMd. Maruf Hossain氏(日本アイ・ビー・エム株式会社)、水流翔太氏(ルール大学ボーフム)、及び、学部4年生の特別実験で本研究室に配属された原直樹君(Sセメスター)、江崎蘭世君、野下隼君(Aセメスター)の活躍によるものである。

成果リスト